「暇ね」

メアリ・クラリッサ・クリスティはすっかり自分の城と化している機関厨房の中で
小麦袋に腰掛けながら呟いた。
しかし、その呟きも何度目であったか。
セラニアンを脱出してからというもの、メアリは酷く暇を持て余していた。
やることがない。
とてもない。
どうしようもないほどにない。
他の人間…と呼ぶのも怪しいが、人間とここではして、
他の、例えばセバスチャン・Mは飛行艇の制御を時々行っているらしく
それなりに忙しそうだし、もう一人のMは、あれは論外だ。
英字新聞をじぃっと、二誌、三誌と取り替えつつ一時間も二時間も読みふけりながらソファーに座っている。
果たして彼に暇だと感じる心はあるのか。
知れるはずも無い疑問を抱きながら、メアリははぁと大きなため息をついた。
退屈は人を殺せるといったのは誰であったか。
まさにその通りだとメアリは思う。
もう一度ため息をつくと、くぅんと足元で黒い犬が可愛らしく鳴いた。
「仔犬くん」
呼ばれた犬は、嬉しそうに尻尾を振ってわんっと鳴く。
その愛らしさに自然と頬を緩ませながら、メアリはかがみこんで仔犬を撫でた。
ふさふさと、それでいて固い犬の毛の感触は、どよりと濁った心を癒していくようだった。
「そのうち、名前をつけないといけないわね」
言ってから、ふとメアリの脳裏を、黒い怯えた影が過ぎった。
それで思い出す。
「……………ううん、もう名前は………多分あるのよね」
それとも、あった、というべきだろうか。
もう誰にも知ることのできないものは、過去になるのかもしれない。
あの日、セラニアンで見た姿を思って、メアリは今は黒い仔犬の姿をしたふるきものを見る。
目の前の仔犬の姿をしたものは、犬ではないと分かっている。
ふるくからいるもの。
人でないもの。
助けを求めてきたもの。
ならば、きっと名前があったはずなのに。
「名前、聞いておけばよかった」
知ることのできない名を思って、メアリは、勿体無いような切ない気持ちになる。
それとも、Mならば名前を覚えているだろうか。
セラニアンでの一件からして、知らないということは多分無いだろう。
ただ、問題は。
思って、自然とメアリの眉間に皺がよる。
面倒なのか、秘密主義なのか―メアリとしては面倒の方を押したい。十割方そうだと思う―
Mの口が異様に固いのが、問題で、しかもすこぶる難問だった。
多分無理。と、後で一応聞いておこうと思いつつも結論付けて、
メアリは再び黒い仔犬を見た。
小さなふかふかの仔犬。
可愛い。
そこでメアリの頭に、暇さゆえのとんちんかんな考えが浮かぶ。
仔犬くんは、人の言葉が分かる。
なら、普通の犬と違って、仕込まなくても芸ができるんじゃないかしら。
…もう一度繰り返すが、メアリ・クラリッサ・クリスティは暇だった。
すこぶる暇だった。
よって、普段なら考えても多分やら無いような事柄を、思いつきのまま実行に移す。
「あのね、仔犬くん。あたしがお手って言ったら、ここに手をのせてみてくれる?」
メアリの言葉に、仔犬はくんっと首を傾げた。
駄目かしら。
その様子にちょっとだけがっかりしながら、それでもメアリは
目の前の黒い仔犬へと向かって手を差し出す。
「仔犬くん、お手」
その言葉に、仔犬は一瞬空白を見せた後、ぽんっと、メアリの手へと自分の右手を重ねた。
それにぱあっと顔を輝かせて、メアリは仔犬の目を見て話しかける。
「凄い、仔犬くん。じゃあ、おかわりっていったら」
「くぅん」
メアリが言う前に、先を読んで仔犬がもう片方の手をメアリの手に置いた。
ぷくっとした肉球の感触が、メアリの掌に伝わって、メアリはキラキラとした瞳で仔犬を見る。
「凄い凄い仔犬くん、じゃあ、伏せは分かる?」
「……くぅん?」
分からないと言いたげに、仔犬が首を横に傾けた。
それを見てメアリは説明しようとするが、言葉が思いつかなくて
小麦袋から腰を上げて、床にぺたっと張り付いて、仔犬の正面から、自分で伏せのポーズを見せてやる。
床にべったりと身体を押し付け、四肢を折り曲げ
「えぇとね、伏せってこう」
「…なにをやっている、子猫」
……………そのとき、確かに世界が終わった気がしたとメアリは後から思い返して死にたくなる。
よりによって。
こんなときだけ外さない。
ぎちぎちと、油を二十年も三十年もさされていないぜんまい人形のように
振り向くと、機関厨房の入り口には黒い男、Mが立っていた。
…メアリは、男の表情を確かめてみる。
無表情だったらまだ救われた。
だけれども、彼は硯学が新種の昆虫を前にしたときのような表情をして
「なにをやっている」
と、もう一度問うのだった。
床に伏せたメアリに向かって、至極冷静な声で。
死にたい。
本当、死にたい。
暇さにかまけてとった行動が、目の前を走ってゆく。
「いつから…居たの?」
祈るような響きの混じった、尋ねる声の震えを無視して、男は口を開く。
「お手と言った辺りだ。なにをやっているメアリ・クラリッサ」
すいません、ごめんなさい、いっそ殺して。
冷静すぎるMの声が、メアリの心を容赦なく打ちのめす。
何を大げさなといわないで欲しい。
メアリは年頃の少女なのだ。
その心ははかなく繊細で……いや、多分、年頃じゃなくてもこれは心が折れる。
仲が心底いい相手なら、笑えるかもしれない。
だが仲が良いといわれても首を傾げるしかなく、
かといって、仲が悪いかといわれれば首を振るような関係の人間相手に
こんなことの一部始終を見られて、誰が平静で居られるものか。
セバスだったらまだ良かったのにと、思うメアリの声はどこにも届かない。
時間は巻き戻せないし、Mをセバスチャンにすげ替えることも出来ない。
しかし、例えばシャーリィやアーシェが居たならまだ救われたかもしれない。
このような状況において、良き理解者は、良き心の支えとなる。
だが、残念なことに。
メアリの悲痛な心の叫びを理解できる人間は、この艦の中には居ない。
メアリは頑なに人として扱うが、心が人から少しばかり、皆遠いのだ。
理解できない表情を浮かべるMと、何がなにやら分からないがメアリが心折られ打ち震えるのに
おろつく子犬と、もう一人。
こつこつと、靴音を響かせて機関厨房に現れたセバスチャン・Mは
倒れ付したメアリの姿を見て、眉をひそめる。
「メアリ、速やかにそこから立ち上がることを推奨します」
「……セバス…?」
急に現れて、鋭い声を出したセバスに、メアリはのろのろと顔を起こした。
「排除対象が、その下にいる可能性があります」
「……排除…?」
意味が分からなくて鸚鵡返しに問うメアリに、セバスはしっかりと頷いて
「いいえ、はい。つまり、今から害虫駆除をとりおこなう所でした。
先ほど見かけましたから、すぐ傍にいるかと」
「……が…い…ちゅ………きゃああああああ?!!!!」
言葉を理解して文字通り飛び上がったメアリは、壁に張り付き、
そして勢い余って壁に頭をぶつける。
その大きな音に、視線を向ける二人と一匹を無視しつつ
メアリは、がっくりとその首を垂れた。
ある意味、あの黒の街を走るよりも今がしんどいかもしれない。
あぁ…もう…暇なんてろくなものじゃない。
なんて一日だ。

おおよそ自業自得ながらも、退屈は(羞恥で)人を殺せることを
身にもって体験したメアリは、今までよりも、大きく深く物悲しいため息を一つ
厨房の隅に落としたのだった。