広大な帝国の空を、一度の補給も無しに抜けるのは
見た目よりもはるかに高性能な小型艇といえども無理な話であった。
故に。
黒の男、M。
人形のセバスチャン・M
そして、メアリ・クラリッサ・クリスティは帝国の大地を一時踏みしめたのだった。



「……」
銀色の髪を風になびかせ、メアリは町を歩いていた。
ぶらぶら、ぶらぶら。
そう、ぶらぶら。
「…………」
……ようするに、メアリ・クラリッサ・クリスティは暇を持て余していた。
整備や、燃料補給をする小型艇に居るのも気が引けて出てきたのはいいものの
見知らぬ土地ではやる事が無い。
見る限り、観光地ではないようだし、暇を潰せるといったら…。
「どこ、かしら」
途方にくれた声でメアリが呟くと、斜め後ろにぴったりと控えていたセバスが
どうかしたのかと視線で尋ねてくる。
それになんでもないのと首をふって、メアリはちょっとだけため息をついた。
すると、今度は足元を歩いていた黒い…子犬…もどきが首を傾げる。
それにも首を振ってなんでもないと答えてから、メアリはちょっとだけ自分が
ベビーシッターに向いているのではないかと思った。
子供は好きだ。
だから、子供のようなセバスになにか教えるのは嫌じゃない。
だけれども、こんなときには見た目相応だったならと思わなくも…。
そう思ってから、メアリは心の中で自分の考えを否定した。
いいや、そうじゃない。
彼女が彼女、セバスチャンである限り、自分の思うようにはならないだろう、と。
金色の髪の、お下げの彼女を振り返ると、彼女は隙の無い仕草でメアリを見やる。
「メアリ、どうかしましたか」
「ううん、なんでもないの、モラン」
『彼女』の名前に対する否定と抵抗は既に無い。
もう、あだなのようなものだと思っているのかもしれない。
それとも、それも自分の名前だと思ってくれているのかもしれない。
どちらともメアリには窺い知れぬことであったし、できれば知りたくないことだったから
メアリはセバスから静かに視線をはずして、町をながめる。
真っ黒な蒸気に汚された町は、倫敦よりも酷く、薄黒い。
そう思ったとたんに、近くの排気口からごうっと蒸気が噴出した。
「やっぱり、空が見えないのね」
「セラニアンは、特等都市です、メアリ」
「そう、…そうね」
青い空。
美しかったあの景色を思って、メアリは目を細めた。
似ても似つかない、灰色の空が頭上にある。
だけれども、あの空の向こうには確かに青い、蒼い、真っ青な空が広がっているのだ。
倫敦の、切れ間から差し込む光の向こうを見える人たちを、メアリは今、酷く羨ましいと思った。
「煤が降って来ます。傘を」
あの日見た空を思ってぼうっとしていたメアリは、セバスに促されて
はっとゆらゆらと降って来る煤を見て、それから常に持っている傘を素早く開く。
「あ」
開いてから、メアリは小さく声を上げて、それからセバスの姿をその黄金色の目で捉える。
斜め後ろに控えた、隙のない、少女。
第五世代機関人形。
首を傾げて、セバスはメアリを見た。
とても可愛い、金色の髪のお下げの少女。
拒否されるだろうと一瞬思ったけれども、メアリはえいやっとセバスに近寄って傘を半分彼女に譲った。
青い色をした目が、驚きで見開かれたのを見て、ほんの少しだけ焦った気持ちになる。
そんなに、驚かなくてもいいのに。
「メアリ」
「あの、煤で汚れると、服の汚れって落ちにくいのよ。知ってた、モラン?」
「いいえ、はい。知識としては」
「だからね、その。この傘は大きいから。だから、大丈夫」
「………メアリ」
何かいいたそうに、セバスが口を開こうとした。
言いそうなことに、見当はつく。
不要だとか、不必要だとか。
その前に、メアリは傘の柄を握りなおして、空いた手でモランの手を取って
丁度良くあった、遠くに見える本屋の方を指差す。
「あのね、モラン。あたしが今、空で作れるのはクッキーだけなの。
でも、その、それだけじゃ、なんだから。お菓子のレシピを買おうと思うの。付き合ってくれる?」
「……了解しました」
ただのごまかし。
言葉を聞きたくなくて、紡いだだけの言葉。
だけれど、メアリはあぁと思った。
本屋で、一緒に本を選んでもらって、その後はどこかでお茶をしよう。
時間が余るのならば、買わないけれども小物を一緒に見るのもいいかもしれない。
そう、セバスチャン・Mと一緒に。
まるで友達みたいに。
買い物をしてお茶をして、また買い物を。
彼女に対する態度を決めかねていた自分はきっと、本当はそうなりたかったのだ。
綺麗な彼女と、可愛い彼女と、きっと、そう。
一緒の傘を差して、一緒の歩幅で歩きながら、メアリは嬉しそうな顔をして笑った。